[まつむし音楽堂]通信

2012年6-7月号

 

 まつむしのチンチロリンという鳴き声にまつわる物語が各地にありますが、ここ松虫も例外ではありません。阿倍野の名所「松虫塚」には、古くから数々の伝説があります。

松虫の音にひかれ草むらに分け入ったまま不審の死を遂げた友人を弔う男のはなし(謡曲「松虫」)、後鳥羽上皇に仕えていた松虫と鈴虫という名の姉妹官女が出家、老後、松虫局(つぼね)がこの地にきて庵を結んで余生を送ったというはなし、琴の名手といわれた才色兼備の美女がこの地に住んでいたが、技を尽くした琴の音が松虫の自然の鳴声に及ばないのを嘆いて琴を捨てたというはなし(「蘆分舟」)など。

 いずれも酒や和歌、白拍子(しらびょうし)など歌舞音曲にまつわるものが多くあります。

 古来、阿倍野は安倍氏の領地で、京都に住む高貴な人が隠棲する地でもあったそうで、吉田兼好も晩年は阿倍野で余生を送ったといわれています。熊野行幸の道筋にある王子社が府下で唯一現存しているのが阿倍王子神社。摂社に安倍晴明の生誕地といわれる安倍晴明神社があり、旧熊野街道が中世の風雅を伝えています。

■送り火

 学校演劇の指導者として多くの業績を残した故佐藤良和先生(1927-2012)は、長年、出身校である追手門学院(旧偕行社学院)に奉職され、茨木市の生涯教育事業にも先鞭をつけられた。

 わたしは高校時代に化学の授業でお世話になったのだが、未知の液体に含まれる成分を特定する「定性分析」の実習で、理科棟の一室に夜遅くまで缶詰めになったことが思い出される。わたしが最も畏れていた教師であった。

 それでも、なにかの機縁で交流が続き、度々書簡を交換した。演劇における音楽の役割、効果に精通しておられたこともあり、同窓会の音楽家や音楽関係者を特集する「山桜会音楽倶楽部報(PDF参照)に寄稿していただいたこともある。

 佐藤演劇の金字塔ともいえる「メトロノーム」が茨木市立生涯学習センター・ホールで初演されたのは昨年3月、東北大震災直後のことである。この作品に続き、夏には「レクイエム・ナザレの海」が、そして今年3月、最後の作品となる「仮面劇・面とペルソナ」が同ホールで上演された。

 すでに悪性の腫瘍が内臓に浸潤し、作者は、この舞台に接することなく帰らぬ人となってしまったのだが―。

 堪え難いほどの苦痛と創作欲の狭間で完成された究極の舞台である。生前、入院先で台本を見せられたときに、もっと親しく接しておればよかったという思いに、いまのわたしは捕えられている。

 2月のある日、わたしは天王寺のY病院ホスピス棟に恩師を訪ね、院内でのフルート演奏を求められた。そして3月5日、伴奏のピアニスト、井前典子さんをともなって演奏会をひらいたのである。

 まもなく迎えようとする死の直前に聴いていただける音楽とはどんなものか―。わたしはバッハ作曲のフルートソナタ・ロ短調(BWV1030)と無伴奏チェロ組曲ト長調(BWV1007*フルート版)、そして日本の歌曲をいくつか用意していた。

 最後に演奏したのはおなじみの春の歌、「早春賦」(吉丸一昌作詩、中田 章作曲)であった。フルートの独奏、ピアノの独奏に続き、打ち合わせにはなかったのだが、3番の歌詞をわたしが歌って幕を閉じた。

 この歌詞をもって、別れの辭(ことば)としたい。

「春と聞かねば しら(素)でありしを 聞けばせかるる 胸の思ひを
いかにせよとの このごろか いかにせよとの このごろか」

(和田高幸)

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