[まつむし音楽堂]通信

 2013年初夏号

 

●5月末の土日に行なわれる帝塚山音楽祭。ことしで27回を数える恒例の催しですが、ふだんは閑静な住宅街も、この2日間は華やいだ雰囲気になります。帝塚山から二つの女子大(帝塚山学院短期大学、府立大阪女子大学)が消えて久しくなりますが、かつての「学園祭」のような盛り上がりをこの音楽祭に期待する人たちは、けっして少なくないでしょう。

●音楽祭の季節になると思い出すのは、北畠に住んでおられた故 山本あやさんのことです。あやさんは、28歳で夭折した天才音楽家、貴志康一(1909―1937)の御令妹で、昭和51年に宝塚へ引っ越す際、ご自身が所蔵しておられた康一氏自筆の楽譜やドイツで出版された数々の著作物、ベルリンフィルを指揮して録音した自作曲のレコードなどを甲南学園へ寄贈されました。貴志康一は、不自由のない家庭環境で絵や音楽の芸術的な才能を存分に伸ばし、留学先のドイツにおいてもヴァイオリニスト、作曲家、指揮者として活躍しました。

●ただ惜しむらくは、あやさんが所蔵していた大量のフルトヴェングラーの指揮用スコア(書き込み入り)を、寄贈先の大阪府立図書館が「紛失」したことです。それはともかく、貴志康一の夢は、大阪を「音楽の都」にすることでした。それを実現するために日本情緒豊かな「日本スケッチ」「道頓堀」「市場」などの管弦楽曲やヴァイオリン協奏曲、「かもめ」「八重桜」「赤いかんざし」などの歌曲を多数作曲しました。あまり知られていませんが、映画も(そしてその音楽も)つくっています。大阪を、そして日本の伝統と文化を、世界に示そうとしたのですね。

●日本古謡を西洋の管弦楽法に融合させた貴志康一の作品は、ジャズや民俗音楽を取り込む現代音楽の手法にも大きな影響を与えています。すでに大阪には世界に誇るオーケストラがあり、康一の夢もなかば現実になっています。時代を超えて、貴志康一の楽曲にいつでも触れられる環境にあることを、わたしたちは大いによろこぶべきでしょう。

●「貴志は、演奏でも作曲でも有機的統一にこだわって理詰めで説得してゆくのではなく、(中略)聴く者にショックを与え、イマジネーションをかきたてることにこだわった」(片山杜秀「関西作曲家列伝第1回貴志康一は映画だ!」、いずみホール『Jupiter』115、2009年) 。貴志は、感性を重視する、「型破り」でサービス精神あふれる作曲家であったのかもしれません。      

(和田高幸)

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