暮らし魔法館 片山学

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≪第二回≫日本の年中行事「お盆」について

日本最終神祇師 片山交壽神祇講傳会「龍灯の集い」テキスト(2002)より
©2017 Neutral Point Institute(まつむし音楽堂気付)


「盆行」について

 現代人と古代の人々の考えは、余りにも掛け離れてしまい、日本古来の神事を尋ねるにしても、山間僻地の古老に聞くにしても、伺い知ること自体がむずかしくなりました。そんなときに日本古来の神事について、鈴之神事、伊勢古流、古傳葛木(かつらき)神道、西大寺菩薩流神道、大御輪(おおみわ)神道、葛木慈雲傳神道の数々を、世に隠れた多くの師匠方の御指導を頂き、秘められた神事について学ばせて頂いた事は本当に幸せでした。

 七夕祭りにしても、古来に於いては七月に身を浄め、八月に祖靈祭りをしていますが、これが佛事とうまく融合し、独自の盆行に高められていますから、やはりここでは、日本古来の神について先に申し述べておきましょう。

 古代人の神は大王家(天皇家)の『天照太神』でもなければ、千家(出雲國造家)の大國主神』でもありません。古代人の崇める神は、天地自然界に存在していると思われる『精靈(さわ)』でありますが、その精靈はあくまでも先祖靈であります。我が國に於ける祖靈信仰の古い形式は、死んだ直後は生前の個性が消滅していない為に、死穢にまみれた『死靈』となって多くは山の麓にて徘徊していると考えられていました。

 その魂はどちらかと云えば荒々しいので『荒魂(あらみたま)』と呼ばれる状態ですが、子孫の供養ともいえる『まつらう』事を繰り返し繰り返し行われる内に、少しずつ穢れや、悲しみから遠ざかり、やがて浄い和やかな魂『和魂(にぎみたま)』となって、上昇したのが『祖靈』であります。そして山中に鎮まり眠れる祖靈は、自然に祖先神と呼ばれる『祖神』となつて、やがて子孫が住む村里近くの山に、年に二回は降りて子孫の家を訪れるのであります。その時期の一つが『御正月』であり、今一つが旧暦七月の初秋に行われる『靈祭り』の日であります。

 従って山間僻地に行きますと、お正月と、旧暦七月は祖靈を迎える日として、奇麗に墓掃除を行い『祖靈祭』、『御魂祭』を古くから行っているのであります。

 この時には『御御靈の飯(おみたまのめし)』、『御御靈(おみたま)』は、山盛りの飯か、握り飯に箸を突き立てた物を、箕の中に十二個を並べますが、所によっては箕の中にその年の月の数だけの餅を、お位牌さんを中心に並べてお供えします。

 新佛さんがあると特に丁寧に行われ、十二月の最初の巳の日を『新佛正月』、或いは『巳正月』と云い、一臼だけの餅を搗いて身内の者と共々に墓参りを済まし、藁火で餅を焼いて分けて食べる風習がありました。今では正月はただ「おめでたい日」という間違った考え方が、特に山間僻地以外の人々の間で一般化して、死者に関する儀礼はすべて取り除かれています。しかし、古代の人々は『御靈』を大切に扱っており、一部に伝承されています。

 盆の先祖供養についても、今日では唯単なる佛教行事としてのみ考えられていますが、前述しましたように我が國古来の先祖供養として旧暦の七月に行われています。このおりに様々な供物をのせる『うつわ』を、山の人々の多くは、『ぼん』と読んでいましたので、佛教に云う『倒懸(とうけん)』の苦しみから救われる意味の『盆行』の『ぼん』と同音から、近世になってから、仏教の行事と混交して広く行われているようであります。

 今日でも御獄行者は、死せば日本六十余州何処に肉体が朽ちても、魂は必ず、山の祖靈祭の日には三之池に戻ると信じられています。山間部等に於いては祖霊祭に帰ってくる魂は死んだものだけに限ってはいません。『生御靈(いくみたま)』と云って、この日には他家に嫁いだ娘や、よそに働きに出掛けた息子が、山間ではめったに口にする事が出来ない刺鯖や、飛び魚等を手土産にして帰り、親に食べさせる事を楽しみにしていたのであります。

 

これらの事から、今日の『盂蘭盆會(うらぼんえ)』を始めとする様々な年中行事が、素朴な古代人の『御靈祭(みたままつり)』に繋がる事が判りますし、『彼岸會』についても同じ事が云えます。

 山間僻地に参りますと、朝明けやらぬ内に起き、出掛ける前に、太陽に向かい一日の無事を願って手を合わせ、一日の仕事をすませた夕方には、沈みゆく太陽に一日の無事を感謝して手を合わせるのを日課とする人が今でもおられます。古代の人たちも同じ事をしていたのですが、血の流れは争えず、人々は時代と共に麓から里へと移り住んでも、同じように太陽に手を合わせる習いが残っています。

 春分の日、秋分の日は、とくに太陽が真東から出て、真西に沈みますので、この日を特別な日として、午前中は『日迎え』と云い、拝むだけでなく東に向かって歩き、午後になると『日送り』と言い、西に向かって歩く『日拝み』の行事を行ったのであります。

 太陽を崇拝する古代人の血は容易に消えるものでなく、更には、春には作物の豊作を祈り、秋には作物の豊かな実りに感謝して、人々は『かいもち』を供える風習が、やがては彼岸の食べ物となって、今日まで続いています。これも佛教に取り入れられ、印度に於ける梵語である飯の意である『ぼた』と、柔らかいの意である『もち』とが合成して、かいもちを「ぼたもち」と呼んで、彼岸の供物としたのであります。

 彼岸は、佛教に於いては死後の世界をさしています。先祖の靈が安んじている場所ですが、日本独特の佛教思想とされているのは、素朴な人々の多い昔に於いて、春分の種蒔き時分、秋分の収穫時分になると、多くの農民が田畑に出て忙しく働いていますから、坊主も托鉢の実りが多く上がります。そこで村人の中に、「おうい、もうじき彼岸(坊主の意)さんがみえるぞ」と、言い習わされた事から、いつしか農民の間に定着した言葉とされています。

更に、この春分・秋分の日は、太陽が真東から出て真西に沈むので、真東に見える水の川を『己が貪りの心』、今當に沈まんとする真っ赤な夕日に染まりし川を『己が怒りの心』として、此の二つの川に挟まれた太陽の画いた一筋の道を、真の山岳法華行者が歩む『一筋の白き道』として、聖行者は只管(ひたすら)先祖の赴いた西方浄土に向い御靈の安からん事を願い、行者自身も又彼岸に至る事を願って、二筋の赤き川と、一筋の白き川を『二河白道』の教えと受け止めたのでありましょう。

ここからも、彼岸という我が国独自の解釈が生まれたのでありましょうが、書物を調べますと、延暦二十五年(八〇六)桓武天皇が、早良親王の怨靈を鎮める為に御靈神社に祀り彼岸會(ひがんえ)を行ったとあります。

 

 初期の僧侶の中には、清濁何れも併せて飲みほし、浄き物とする思想があり、神佛と、ことさらに別け隔てゝ考える事なく、むしろその生命の根源は共に同じであるとして、自身の教えとして説いていますが。その場合神の教えで人々を教化する時は『天照太神』として説き、佛の道に於いては「大日如來」でもって、その教義を説いています。 神佛何れにも捕われず、生命の根源を大日霊命として弘法大師が説かれ、そのごの兩部神道において、神道の優れた道を取り入れ、独自の神道理論を立てられたのが、葛城慈雲神道であります。

 日本古来の優れた神道の教えを、先ず十分に咀嚼し『自家薬籠』としてから、佛教の教えの中に当てはめ、理路整然として神の道を説かれていますが、國家の名の元に行われていた佛教の初期に於いて、各地に國分寺、國分尼寺を建立し、布教に努めている僧侶は、それまで行われていた祖靈信仰を、すぐには変えようとせずに、むしろ神道の優れた面をどんどん取り入れ、上辺に於いて、神をたてながらも、徐々に佛教色に塗り替えて行く中で、彼らは巧みに祖霊祭の『盆行』を完全な佛教色にしています。

 

 もともと古代印度に於いては、我が国と同じ農耕儀礼の一つとしており、麦作収穫祭を行う当日に於いて、神々に供物を供えるのにそのままでは申しわけないとして、『ほとぎ』と言う器に盛り上げていますが、この器をその後『ぼに』とよばれていたのが、我が国と同じく『ぼん』と転訛されたと云われています。

我が国においても、神様にお供えする器は『ぼに』、若しくは『ぼん』と呼ばれており、ぼんに多くの供物を供えて行う祖霊祭から、山の人は『ぼん』に入れて行う祭りと解釈しているのを、ともに同じ意味であるとしたのではないでしょうか。

もともと佛教に於いては、死んだ佛は極楽浄土に往生するか、輪廻転生して天界・人間界・阿修羅界・畜生界・餓鬼界・地獄界の何れかに再生するものと考えられていますから、盆の日に靈魂が立ち戻るという事自体がおかしな話であります。まして忌み火を焚いて靈魂を迎え、忌み火で送るという考えは、もともとわが国固有の神道の考えでありますが、このような物は他にもたくさんあります。

 

 日本古来の神道に基づく考え方に於いては、祖靈を祥月命日(正辰祭ともいう)、日々の供養は欠かさないが、別に月始と月半ばは特に丁寧に供養を行い(月次祭とも云う)、又春の最中の供養(春季靈祭とも云う)、秋の最中の供養(秋季靈祭とも云う)等を行う風習がありますが、弥生時代には既に大切な人が死せば、最初は村の中央部に埋葬し木柱を立て、早く天に魂が帰り浄化されて、再び神としてこの地に戻り、村を守り玉う思想が、村を見下ろす小高い山となり、山が古墳へと発展していきます。

さらに山の人は、高神として山に帰りし御魂は、子孫が心をこめて供養する事により、死語の浄化されていない荒々しい魂『荒魂』が、やがて浄化されて三十三年も経つと昇華されて、和やかな魂『和魂』となり、立派な神の姿をなされて、再び子孫の住む麓の村に在る鎮守の杜に戻り、子孫を守護して下さる、となりやがて佛教が伝来し、半ば強制的に、佛式で葬式を出しておいても、山の麓に住む人々は、三十三年経つと御先祖様は、これで神様にお戻りになられたとして、個人の位牌を川に流したり、或いは塔倒しと言って墓石を壊してしまう風習が生まれたのであります。かくして祖靈から、祖神となり、さらに山の神々と一体化し、新年を祝福する年神様となり、卯の月八日の山の神迎え神事、初冬の田の神送り神事、正月様の松迎え神事などの務めをなされると信じられたのであります。

 このように、死靈が三十三年経つと死穢が無くなり、神となる思想が佛教に入っていますが、それ以外にも『枕飯』、『北枕』、葬列の『松明』、『箒』出棺後の『不浄祓い』、十年単位の『式年祭』等、随分と佛教に於ける追善供養に生き残っているものがあります。

 盆にしても、もともとは日本古来の祖霊信仰を、うまく佛教が御靈祭りへと轉化させたもので、六月に祀る『場所の汚穢』を祓い、七月に『身の不淨』を洗い浄め、八月に『祖靈祭』が行なわれたのであります。今日盆に用いられている盆花、女郎花、桔梗、萩、山百合は、山から迎える祖靈の依代であり、盆の祖靈祭が終わると、真菰に巻いて水辺に納めていました。

 

 今日行われている佛教による盆の起こりは、古代印度において、子孫のない靈魂が死後に於いて無縁佛となり、その苦しみは倒懸(逆吊りの意)と同じか、それ以上の苦しみであると考えられた事で、印度に於ける梵語『ウランボン』が、中国に於いて『盂蘭盆』と書かれた文字の中に、『盆』があり、今日の盆の解釈の誤りとなったのではないでしょうか。

 伝承によると、婆羅門の出身で名は目連(=もくれん、牛建)、母は青提(しょうだい)と云い、十二歳の時母の願いにより修行に入り、十五歳で受戒して転法僧となっています。一番大事にして育てた子供の成長を夢見ながらも、やはり母として子を思う心には変わりなく、憔悴の末に形見の衣を一枚残し無くなった後、その事を知り、百日の供養を済ませて、再び修行に明け暮れ励み、二十七歳で釋迦如來の十大弟子となり、神通第一と呼ばれていますが、三十七歳で亡くなっています。

 死出の旅に赴いた目連尊者は、 母にもう一度会いたい一心で、 あの世に通ずる十満億土の道とされている『中有』の世界から、三途の川をわたり、やがて閻魔大王の前に出ると、胸の内を打ち明けた所、大王はだまって黒縄地獄に案内したのであります。此の世界は墨糸で亡者の身体に墨糸で線引きし、その線にそって切り刻み、煮えたぎる灼熱の鉄の湯投じる恐ろしい地獄ですが、此の中に母がいると教えられ、煮えたぎる鉄湯に向かい母の名前を必死に呼ぶと、窯の中から一匹の亀が這い上がり、「そなたの母じゃ」と、蚊細い声で応えたのであります。

これがもとで、その倒懸の苦しみから救われる手立てがないかと、母に尋ねたところ「一日一字ずつ、一つの石に法華経の文字を」と教えられたそうです。再び鉄湯の中に獄卒に放りこまれた尊者は、大王に願い出てこの世に戻り、十方の大徳、主上に施食の供養を勧め、一字一石の法華経供養に励んだのであります。

そのお陰で地獄の苦しみから救われた母が、目連尊者に感謝の言葉を述べられたので、目連は喜び、雨季の終わる七月十五日の屋内修行の最終日『安居』の日には、必ず祭壇を設けて、さまざまな供物を供えて供養したのが盂蘭盆會の始まりとされています。

 

 此れまでの経過を詳しく書かれた経典が、印度に於ける『佛説盂蘭盆經』の本意とされていますが、中國にこの教えが伝わると、中國は儒教が盛んな国であり、孝養を最も尊ぶ国ですから、一心に我が子の成長を願いし母が、日々倒懸以上の苦しみを受けると云う事は道に外れた事として、更に脚色して中國的色彩の濃い中國撰述の經典に変えたのですが、ちょうど七月十五日は、死者が此の世に戻ってくるという「鬼節」にあたりますので、祖靈供養の意味を強める為にも、この日を選び盂蘭盆會を行うになったのでしょう。

 盂蘭盆會が、我が国で最初に行われたのは、『日本書紀』によりますと、推古天皇十四年(六〇六)の條に、「この年より、初めて寺毎に四月八日、七月十五日に設齋(おがみ)せしめき」とあります。続いて斉明天皇三年(六五七)の條に、「辛丑の日に須彌山の像(かた)を飛鳥の寺の西に作り、又盂蘭盆の會を設けき」とあります。

聖武天皇五年(七三三)からは、盂蘭盆會の供物を大膳職の管掌と定められ、以後平安時代には盛んに行なわれていたものの、当時の盂蘭盆法會は、あくまでも中國の模倣であり、そのままでは地方に於いては、あまりの矛盾だらけで受け入れる事は出来ません。

 先ず第一に佛教の教えでは、心掛けのよい死者は極楽淨土に往生し、人ならぬ道を歩んだ者は、佛教で説く因果応報の報いに因り地獄に落ちて日夜呻吟し、さらに神主、僧侶、賣占者は、物欲に執着し、本来の人々を救うものが、人々の心を欺き、真の道を暗く影指す罪は、地獄より恐ろしい天狗魔道に堕ちて終生救われる事なし、と。

然るにお盆の日に、地獄の釜の蓋が開き、祖先の靈魂がもどってくると云うのは、あまりにもおかしな話であります。盆の前日に墓地を浄めるのも、当日身を浄めて供物を調(ととの)え、忌火を焚いて先祖靈を招くのも、先祖靈とともに会食するのも、忌火で送り出すのも、全て神道に基づくものであります。

 

 現在行われている寺院の盆供は、施餓鬼作法と一体化されていますが、これは江戸中期以降のものであります。元来は餓鬼の為に様々な供物を供えて、飢饉などで飢えた死者、疫病で苦しみながら死せし亡者、交通の便悪しく野末の果てに倒れし者など、ひもじさ故に未だ浮かばれぬ死者の御靈の為に施す法会であり、『施食會』、若しくは『冥陽會』と呼ばれる法會でありますから、期日と云うものは別にありませんでした。しかし、いつの頃か日本古来の祖霊祭と混じ、八月の祖霊祭の前後に、先祖や、縁につながる人の滅罪追福を為に行う、善根功徳の法とされて、行うようになったようです。

 その由来は、 印度に於いて如來大事の心より生まれたものなれば、『釈門正統』においてはもともと施食の法は誰も知らず、ただ如來の大慈大悲の御心より、 一切の御靈が死して供養を受け入れられず飢餓の苦悩を受けるを憐れまれてお考えになられた法であります。阿難尊者に施餓鬼食としておしえておられますが、 経論には『涅槃経には 曠野鬼』、 『焔口經には焔口鬼』、 『 鼻奈耶經には訶利帝母』と、 名前は異なれど、 その供養の偉大な作用をのべておられますのが、明治までは在家に於いても行われていました。その次第をお伝えします。